横浜周辺 文学散歩
今回は横浜の山手の丘を選びました。明治時代に開港された横浜において、山下町や山手の丘は居留地として多くの外国人が住んでいました。日本は近代化を推し進めていくうえで欠くことのできない西洋文明を摂取し、文化もこの地から日本中に広まりました。文学の題材もこの地と関係するものが多数あります。
参考作品
一、「午後の曳航」三島由紀夫
二、「一房の葡萄」有島武郎
三、「乙女の港」中里恒子・川端康成
四、「山月記」「カメレオン日記」中島敦
五、「生麦事件」吉村昭
一、外人墓地吉村昭の「生麦事件」
旧東海道は狭く、馬に乗ってすれ違うのは危険である。一八六二年九月一四日午後二時ごろ、生麦村で事件が起こった。島津久光の四百人を超す大名行列が生麦村にさしかかったとき、川崎大師を見に行こうとした四人のイギリス人たちが現場で向かい合った。当時の日本では大名行列に出会ったら、馬を降りて道を譲らねばならないことになっていた。ところがイギリス人たちは臆することなく行列に入り込み、これが薩摩藩士の激しい怒りをかった。自顕流の名手奈良原喜左衛門が先頭のリチャードソンに最初の一太刀を浴びせ、畑に逃げたところで海江田武次が止めを討った。マーシャル、クラークは重症を負ったが逃げ帰った。マーガレット・ボロデール夫人は無傷だった。
外人墓地にはリチャードソン、マーシャル、クラークの墓がある。いずれも十字架が壊れていたり、落ち葉にうもれ観光客に踏みつけられたりしていたが、今は生麦事件を風化させまいとする人々の善意により、一か所に集められ、綺麗に整備されている。当時のことは生麦村名主関口家の日記や、当時の名主の東右衛門、次郎右衛門が提出した届書などに詳細に記されている。これらの資料から、事件の詳細、関係者、その日の天候に至るまで、ほとんどが判明している。なお、マーガレット・ボロデール夫人は事件後上海へ帰った。
二、黒田房子の家のモデル 三島由紀夫「午後の曳航」の房子、昇の家
死んだ父が建てた横浜中区山手町の、谷戸坂上のこの家は、占領中接収されている間に改造され、二階の各室にトイレットが取り付けられていたので、閉じ込められても不自由はないが、十三歳としてはずいぶん屈辱的なことだ。
ちょうど大佛次郎記念館の場所に昔あった家と考えられています。文芸評論家の田中美代子が昭和38年の港の見える丘公園の写真を元に推定しています。
三、大佛次郎記念館
四、谷崎潤一郎旧宅 山手町267番地
谷崎は、横浜に創設された大正活映株式会社の脚本部顧問になったため、横浜へ引っ越します。まず本牧に引っ越しますが、その家が台風で壊れたため、次にこの山手町267番地に引っ越してきたわけです。この家には一九二一~一九二三年まで住んでいました。しかし、この会社が松竹に吸収され、また関東大震災もあって、谷崎は関西に移っていきます。
五、ブリテン女学校(山手町一二〇番地)今は住宅地になっている。
有島武郎は、明治一五年父武が横浜税関長就任に伴い、東京から横浜市月岡町の官舎に移った。父親は厳しい人で、自身の海外渡航経験から英会話は必須と考えて、早くから子供に英語を学ばせた。十六年よりアメリカ人宣教師の家庭に英語を学ぶために通い始め、一七年より山手居留地にあった横浜英和学校(ブリテン女学院・現在の成美学園の前身)に入学した。月岡町の自宅からこの学校までは地図上で四~五キロあるが通学している。この学校在学中に友人の絵具を盗んだのが発覚し、これが後に「一房の葡萄」という作品となった。
「僕は小さい時に絵を描くことが好きでした。‥‥あの透きとおるような海の藍色と、白い帆前船などの水際近くに塗ってある洋紅色とは、僕の持っている絵具ではどうしてもうまく出せませんでした。‥‥ふと僕は学校の友達の持っている西洋絵具を思い出しました」(一房の葡萄)
この時盗んだ絵の具は青と赤ですが、明治時代の国産絵具はたいへん貧しく、藍染めに代表されるインジゴぐらいしかなかったと思われます。それに対して外国人は、当時横浜に輸入されていたウインザー&ニュートン社の十二色の絵の具セットを使っていたと推定されます。その絵の具セットの青はコバルトブルーでした。武郎少年は海の透き通るような青が描けないといって、コバルトブルーを盗んだものと推定されます。 なお日本がコバルトブルーを作れるようになったのは太平洋戦争後になります。
なお、もう一つ盗った赤は、何かというと、これについてはイギリスのウインザー&ニュートンに尋ねたところ、明治時代に日本に輸出した記録は残っていないが、当時売り出されていた絵の具セットでは、赤はバーミリオンと推定されるということでした。
六、大佛次郎記念館(休憩)
七、外国人墓地 中島敦の文学碑
シドモア女史の墓碑の右隣にある。カメレオン日記には「スイドモア氏の碑の手前に腰を下ろす。ポケットからルクレティウスを取り出す。別に読もうという訳でもなく、膝に置いたまま、下に広がる薄靄の中の街や港に目をやる」」とあり、よく外人墓地を訪れていたようです。
碑には昭和十一年作歌が刻まれている。
「朝曇りこの墓原に 吾かゐれは 汽笛とよ もし 船行くが見ゆ 敦」
シドモア女史は、ワシントンDCのポトマック川河畔が公園になると決まった時に、大統領に、桜を植えるように進言した人。東京からワシントンへ桜の苗木が送られ、ポトマック川河畔は今日全米一の桜の名所になっている。
カメレオン日記という作品は、博物学教師の主人公が生徒からカメレオンをもらいます。季節は冬であまりにも寒く、ストーブを焚いて飼育を始めたが、気候の違いからかうまくいかずに日に日にカメレオンは衰弱していきます。この弱っていくカメレオンを描きながら、同時に喘息発作で苦しむ自分を重ね合わせていく作品です。
八、山手聖公会
中島敦のカメレオン日記に登場
「基督教会の蔦が葉を大方落とし、蔓だけが静脈のように面に見える。コスモスが二輪、柵に沿ってちぢれながら咲残っている。海は靄(もや)ではっきりしないが、巨きな汽船達の影だけは直ぐに判る。時々ボーボーと汽笛が響いてくる。‥‥」
九、横浜雙葉学園(香蘭女学校)
中里恒子・川端康成の「乙女の港」の舞台。
「三千子も上着を取りに、教室への廊下を真っ先に駆けていくと、不意に薄暗い窓際から、背の高い痩せたひとが近寄って来た。ふと驚いて立ち止まる三千子に、ネイビイ・ブルウの手紙を渡して、‥‥」 「エスと呼ばれる以上、相手の靴下のインチからお弁当の中身、日曜日の行動まで、すっかり知っているのが当然だと言わぬばかりに‥‥」
(乙女の港、実業之日本社文庫、一三p、二三八p)
この小説は、女学生同士の友情、一種の疑似恋愛を描いたものです。当初より川端以外の人の作品との噂があったが、一九八四年に川端全集の補巻に川端と中里の往復書簡が掲載され、また、一九八九年に神奈川近代文学館が「中里恒子展」を行い、その際に中里自筆草稿が公開された。結局弟子の中里恒子(乗合馬車で芥川賞受賞)が書き、川端が自著として出版したものと判明した。そのため今はこの作品は共著とされている。中里は香蘭女学校、今の横浜雙葉学園の出身であり、ここが舞台と考えられている。
十、大正活映株式会社跡
谷崎潤一郎は大正九年に横浜で創設された大正活映という映画会社の脚本部顧問とし招かれています。その時代は活動写真と呼ばれていた時代で、もの珍しいけれど、一般に低俗な内容だったようです。この会社は浅野総一郎の子息が作ったもので、芸術映画を目指したようです。最初の作品が「アマチュア倶楽部」二作目が「葛飾砂子」という作品でしたが、芸術映画は地方では受けが悪く、大正十一年にあえなく解散となり、松竹に吸収されています。ここがその跡地です。
十一、中島敦文学碑
汐汲坂の途中で、横浜学園元町幼稚園の運動場に碑がある。ここにかつて横浜高等女学校があった。向かいの事務所で許可をもらえば見学可能だが、本日は休みです。
中島敦は東京帝大卒業後、横浜高等女学校(戦災で焼失し、現在は磯子区岡村町に移り横浜学園となっている)の国語などの教師になった。しかし喘息発作が頻繁となり、昭和十六年に療養を兼ねて、パラオに国語教科書編集書記として赴任。翌年帰国し作家活動に入ろうとしたが、三十三歳の若さで喘息のため死去。
碑文には山月記の冒頭部分が書かれている。
「 隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい9、天宝の末年若くして名を虎榜(こぼう)に連(つら)ね‥‥賎吏(せんり)に甘んずるを潔しとしなかった」
十二 ザ・ポピー
三島由紀夫の「午後の曳航」で房子が取り仕切っている舶来洋品店レックスのモデル。
「舶来洋品店レックスは元町でも名高い老舗で、良人の死後房子が取りしきっている。その͡小体(こてい)なスペイン風の二階建てはよく目立ち、厚い白壁には西洋花頭窓(かとうまど)を穿(うが)って、地味で趣味のいいディスプレイをしている。‥‥」
ここがモデルとされていますが、今はイギリスのチューダ様式になっています。
新潮文庫「午後の曳航・二十六ページ」
