太宰治と三鷹のまち – 横浜文学学校

太宰治と三鷹のまち

今回は太宰治を選びました。多数の短編がありその舞台も関東に多く点在することと思いますが、特に集中している三鷹を中心にしてまわりたいと考えています。太宰は日々の生活からヒントを得て作品を作っているため、三鷹周辺の情景が出てくる作品は多数あります。回るポイントごとに参考のために作品名を掲載しました。読んでこられるとより深まるものと思います。なお、本屋になければウエブで「青空文庫」を検索してもらえればほとんどの作品のコピーが手に入ります。ほとんどが短い作品ばかりです。

参考文献 雨の玉川心中(ウエブ青空文庫にあります)

一.陸橋

陸橋

太宰はここが好きで写真も残っている。昔は三鷹がよく見渡せ、仕事の合間にしばしば訪れた。太宰の痕跡が残るのはここのみで、その他はすべて案内板だけである

二.旧中鉢家跡

今は藤和シテイスクエアというマンションになっている。ここも一時仕事部屋にしていた。

某所に秘密の仕事部屋を設けることにしたのである。それはどこにあるのか、家のものにも知らせていない「朝」

三.うなぎ若松屋跡

現・桜通りにあり。打ち合わせに利用。現在国分寺に移転している

四.田辺肉店離れ跡

現・三鷹の森書店、ここで「斜陽」の三章以降や「犯人」を書いた

五.太宰横丁

太宰がよく利用した小料理屋の喜久屋があった。

六.太宰文学サロン

太宰文学サロン

旧伊勢元酒店の跡に作ったもの。「十二月八日」にもでてくる)ここには銀座のバー・ルパンを模したカウンターがある。

七.千草跡

小料理屋でこの二階も仕事部屋にしていた。

八.野川家

二階に山崎富栄が下宿。現永塚葬儀社)

  富栄の日記 雨の玉川心中 青空文庫

  二十二年五月三日

“死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか”

 “死ぬ気で、恋愛? 本当は、こうしているのもいけないの……”

   “有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ”

   “うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛する  

 なら、死ぬ気でしたい……” 

二十三年六月十三日

私ばかりしあわせな死に方をしてすみません。奥名とすこし長い生活ができて、愛情でもふえてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。山崎の姓に返ってから死にたいと願っていましたが……、骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。

ここから二人で玉川上水に向かった。机上に「グッドバイ」と「人間失格」の原稿が残されていた。

九.ポケットスペース

「乞食学生」の一節を刻んである)

十.玉鹿石(入水地点)

昭和二十三年六月十三日深夜、太宰と山崎富栄はこの道をさまよっていた。

玉鹿石(入水地点)

この桜の大木がすべてを見ていたのか?

玉鹿石(入水地点)

十一 太宰旧宅跡

六畳、四畳半、三畳の三部屋で十二坪半の借家だった。

甲府からこの三鷹の、畑の中の家に引っ越してきていた‥‥私は一生、路傍の辻音楽師で終わるのかも知れぬ「善蔵を思う」

私は夕日の見える三畳間にあぐらをかいて侘しい食事をしながら妻に言った。「僕はこんな男だから、出世もできないし、お金にもならない。けれども、この家一つは何とかして守っていくつもりだ」「東京八景」

お乳とお乳の間に涙の谷「桜桃」

玄関横の百日紅は、今年は花が咲きませんでした‥‥「おさん」

十二.みたか井心亭(太宰家の百日紅移植)

ここでいずみ通りに戻る。

下連雀しんわ児童遊園で休憩

十三 太宰治・亀井勝一郎「本のレリーフ」碑

参考

   武者小路実篤「地球を支える手と人間萬歳」

   三木露風「赤とんぼの碑」

十四 ミタカ美粧院

山崎富栄の勤務先‥‥現在は大きなビルになっている。コラル

太宰治展示室 (五階、三鷹市美術ギャラリー) 太宰の書斎、田中英光の特別展もあり 出会った場所は露店のうどん屋。富栄の夫は戦地で行方不明になっていた。 昭和二十二年三月二十七日(以下富栄の日記、雨の玉川心中 「青空文庫」で読めます) 今野さんの紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にある人である―作家という。流説にアブノーマルな作家だとお聞きしていたけれど、“知らざるを知らずとせよ”の流法でご一緒に箸をとる。“貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。 午後五時ごろ  三鷹から新宿へ 五時半 懇親会「どん底」