江戸の怪談 – 横浜文学学校

江戸の怪談

今回は日本人なら誰でも知っている江戸時代の怪談、七不思議等の舞台を回ります。江戸の庶民は怖い話、不思議な話が大好きで、落語、歌舞伎等で講評を博していたようです。明治以降も映画、舞台等で何度も使われ、日本人の記憶にしっかりと刻まれている物語です。

丸の内線四谷三丁目駅 3番出口徒歩8分

1.於岩稲荷神社、於岩稲荷陽運寺

東海道四谷怪談のお岩を祭ってある。

『東海道四谷怪談』は、四代目鶴屋南北の歌舞伎狂言。全五幕。文政8年 (1825) 江戸中村座で初演された。

春好斎北洲(江戸時代後期、生没年不詳)

作者南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。

岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。

元塩冶藩士、四谷左門の娘・岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に復縁を迫るが、過去の悪事(公金横領)を指摘され、左門を殺害。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助は、袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。ちょうどそこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く二人を伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。 田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。

伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。

袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。

蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。

市ヶ谷駅2番出口より徒歩1分

2.番町皿屋敷の帯坂

髪を振り乱し、帯を引きずりながら逃げた坂。

江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙しているのが1758(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった『番町皿屋敷』である。

月岡芳年(江戸末期から明治時代、一八三九~一八九二)

牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。

その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。

しかしこの話、まず了誉上人は実在の人物ではあるものの1420(応永27年)に没した人物、火付盗賊改が創設されたのは1662(寛文2年)、千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿、などと矛盾やこじつけがあまりに多い。しかしその筋立てのおもしろさ故か、「青山主膳とお菊の番町皿屋敷」というイメージが他でも取り入れられるようになった。 東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。

岡本綺堂による1916(大正5年)作の戯曲。怪談ではなく悲恋物語の形を取る。

旗本青山播磨と腰元は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。

1963(昭和38年)に大映で市川雷蔵、藤由紀子主演で『手討』が製作された。ただしすぐお菊の後を追う形で、青山播磨も切腹に向かう所で終わる、より悲恋物語の性格が強い作品である。ビデオ、DVDになっている。

落語の中に皿屋敷を題材にした話がある。題名は『お菊の皿』、またはそのままの『皿屋敷』。

町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。 それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が九枚以降も皿を数え続けている。お菊は十八枚まで数えると「これでおしまい」と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。何故十八枚も数えるんだ」と訊くと、お菊は「明日は休むので二日分数えました」と答えた。

より古典的なところでは、旅の僧がお菊の霊を慰めようとして「なんまいだー(何枚だ)」と念仏を唱えると、お菊が「どう勘定しても、九枚でございます」と返す、という駄洒落(だじゃれ)落ちのものもある。

千代田線 千駄木より徒歩5分

3.新幡隋院跡地

牡丹灯篭で白翁堂が助けを求めた寺。

4.全生庵

中国の物語を日本風に翻案し落語にした三遊亭圓朝が眠る寺。

六代目三遊亭円生の噺、「 怪談・牡丹灯籠(ぼたんどうろう)お札はがし」によると。

根津の清水谷に萩原新三郎という若い美男の浪人が住んでいた。牡丹灯籠の発端です。

そこへ、毎夜毎夜、若い娘のお露、女中のお米の二人が通って来る。ある日、新三郎が日に日にやつれていくのを心配した人相見の白翁堂勇斎という人が新三郎宅を覗いてみると、果たして新三郎と語らっているこの二人は骸骨であった。

白翁堂勇斎の助言で新三郎が彼女の住まいだという谷中三崎町をいろいろ調べてみると、この二人、墓もちゃんとある。つまり、お露とお米は幽霊であったのだ。新三郎のことを恋しくて、お露が通って来る。「牡丹燈籠」とは、女中のお米が持っている灯り の絵柄。夜になると「 カランコロン、カランコロン」という駒下駄の音。

このままだと、新三郎は幽霊に憑り殺されてしまうというので、白翁堂はお露さんの墓のある新幡随院の和尚に助けを求める。和尚は寺宝・海音如来の仏像を貸してくれ「これを肌身離さず、それから魔除けのお札を家中の窓に貼り付けておくように」と固く言いつけた。

果たして、お露、お米の二人は、お札の為に家に入れない。そこで萩原家の下男の伴蔵、お峰夫婦のもとへ幽霊二人が現れ「どうかお札をはがして下さい」と頼む。伴蔵夫婦は 最初半信半疑であったが、女房と相談の上「それじゃ、百両と引き換えにはがしましょう」と、金に目が眩み、 約束をしてしまう。新三郎に身体が汚いと幽霊が取り付くからと騙し、行水をさせている隙に仏像をすり替え、お札をはがしてしまう。

その夜、新三郎の許へ、二人が現れ、恋しさ余って新三郎を憑り殺す。

月岡芳年  お露とお米が牡丹の花をあしらった灯篭をもって夜毎通っていく。

次に本所七不思議の地に移動します。

5.本所七不思議(ほんじょななふしぎ)

本所七不思議は、本所(東京都墨田区)に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談。江戸時代の典型的な都市伝説一つであり、古くから落語など囃のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。七不思議であるが伝承によって登場する物語が一部異なっていることから七種類以上のエピソードが存在する。 これらの場所は江戸時代には、寂しい場所であり、夜になると不気味な場所でもあったようです。

総武線両国駅

片葉の葦

留蔵という男がお駒という娘に想いを寄せたが、相手にされなかったため、両国駒止橋近くで斬り殺し、堀へ捨ててしまった。その後この付近で生える葦は、みな片側だけしか葉が生えない。(片葉の葦にまつわる伝承は全国に多く、その理由も神仏畏怖や怨念など様々。)

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

落ち葉なき椎

本所御蔵橋北にある松浦家上屋敷には、非常に大きな椎の木があるが、落葉するのを誰も見たことがない 。

明治四十一年の上屋敷  山本松谷

置いてけ堀

本所のとある堀で釣った魚を持ち帰ろうとすると、「置いてけ、置いてけ」という怪しい声が聞こえる。

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

津軽家の太鼓

火事を知らせる際に町方では半鐘をたたき、大名屋敷では板木を打っていたが、南割下水近くにあった弘前藩津軽家上屋敷ではなぜか太鼓を打つことを許されていた。

津軽藩上屋敷 火の見櫓も見える。一幽斎重宣(二代目広重)

ここから大横川親水公園に入ります。ここで本所七不思議のレリーフを見ます。

送り提灯

夜中に本所出村町あたりを歩いていると、前方に提灯の明かりが見え、近づくと消えてしまう。まるで道案内をしてくれるような提灯である

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

以下は立て札もなく、残っているものがないため割愛します。

送り拍子木

入江町の時の鐘近くで夜回りをしていると、どこからともなく拍子木のカチカチという音が聞こえてくる。

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

灯りなしの蕎麦屋

本所南割下水あたりに行灯(あんどん)のついていない無人の蕎麦屋があった。客が蕎麦を食べようと待っても主はいつまで待っても来ない。また気を利かせ行灯の灯りを付けてもすぐに消えてしまう。結局客はあきらめて家に帰るが、その後必ず凶事がおこる。

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

足洗い屋敷

本所の旗本屋敷で、夜更けになると血にそまった大きな男の足が天井を突き破って現れ、「足を洗え、足を洗え」と騒いだ。家来たちが足をきれいに洗ってやると、足は引っ込み天井は元どおりになるが、手を抜くと大足が暴れだす。

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

馬鹿囃子

夜になると、どこからともなくお囃子がきこえてきて、遠くにきこえたと思ったらすぐ近くできこえたりするという。その調子に誘われるままついて行って、気が付くと野原の真ん中で寝込んでいたという。

昇旭斎国輝(三代目歌川国輝、明治初期、生没年不詳)

映画化

1937年に新興キネマでこの怪異を題材にした怪談映画「本所七不思議」が製作された。1957年には新東宝で「怪談 本所七不思議」としてリメイクされた。

後に新興キネマの流れを汲む大映映画「妖怪百物語」の元になった。

「本所七不思議」 監督 寿々喜多呂九平 「怪談 本所七不思議」 脚本 林音彌、赤坂長義 監督 加戸野五郎

6.春慶寺

東海道四谷怪談の原作者、四代目鶴屋南北が眠る寺。