小林多喜二『独房』『党生活者』 – 横浜文学学校

小林多喜二『独房』『党生活者』

作品 『独房』『党生活者』

西武新宿線沼袋駅

一.豊多摩刑務所

多喜二は治安維持法違反の罪でここに一九三〇年八月二十一日から翌年の一月二十二日まで収容された。その間不敬罪でも追起訴されている。天皇への「献上品」の缶詰に「石ころでも入れておけ! かまうもんか」『蟹工船』と書いた部分を追求された。

現在表門だけが残されている。ここでの体験を『独房』として発表した。「俺だちは鉄の門を入った。――入ると、後で重い鉄の扉がギーと音をたてて閉じた」そのほかの収容された人々、大杉栄、亀井勝一郎、中野重治、埴谷雄高、三木清、河上肇など。

沼袋駅より高田馬場駅そこからJR五反田駅へ

二.藤倉工業

『党生活者』の倉田工業のモデル。パラシュート、防毒マスクなどを作っていた軍需産業。現在ポーラ化粧品、NTT東京料金情報センター、および藤倉ビルまでの一帯が当時は藤倉工業の工場だった。「工場から電車路に出るところは、片側が省線の堤で」この部分は今も当時を思い起こさせる。また、「キリンででも一杯やるか」という冒頭部分は駅東口の東急ストアのコージコーナのあるところ。ここに当時はキリンビヤホールがあった。

JR五反田駅より恵比寿駅西口へ。

ここで都バス学06番日赤医療センター行き五分。東四丁目下車。

三.地下活動していた多喜二最後の住居

現在は渋谷区羽沢町四四、高梨方。広尾学園と聖心女子大の間ぐらいのところ。ここで『地区の人々』を書いた。一九三三年二月二〇日午前、和服を着てロイドめがねをかけて出かけた。赤坂で今村恒夫と合流し、 三船留吉に会う予定だった。

東京メトロ日比谷線で六本木へ。

ここで都営大江戸線に乗り換え麻布十番駅下車(A4出口)

四.称名寺

伊藤ふじ子と結婚し、ここの境内にある二階屋の一室を借りて住んでいた。門を入り右手、現在の本堂のあるところ。当時の生活は銀座の図案社に勤めていた伊藤ふじ子が支えていた。借りた部屋は五畳で一日中陽があたらない陰気なところだった。またふじ子は『党生活者』の笠原がモデルとも言われた。地下にもぐった男の活動家が単身では怪しまれるので、当時共産党ではハウスキーパー制度を奨励していたという。

五.ヤマナカヤ跡地

果物屋の喫茶室の名前。ここを休憩と連絡場所にしていた。ここで母や弟とひそかに会っていた。「お前に会うまでは居ても立ってもいられなかったが、こうして会ってみると、こんなことをしている時にお前が捕まるんじゃないかと思って、気が気でない」『党生活者』にはこのように対面をほうふつとさせる場面がある。麻布大通りにあって現在は麻布薬局。

麻布十番駅から南北線で溜池山王駅へ(9、10、11番出口)

六.赤坂福吉町

詩人今村恒夫と合流し三船留吉(ペンネーム香川)と会うため料亭の門をくぐった。そこに待っていたのは特高警察だった。二人は逃げたが、電車通りまで逃れたところで多喜二が転倒し捕まった。今村は戻って戦ったが結局逮捕された。特高に追跡された場所つる中と木下の間の通り。三船は当時五人いた中央委員の一人で、共産党組織に忍び込んだ特高警察のスパイだった。三船は何度も同士を売り、地方組織を丸ごと売ったりした。自らも一緒に逮捕され刑務所に入り、保釈されるとまた組織に入っていくことを繰り返し、共青中央委員にまで上り詰めたスパイ中のスパイだった。

南北線溜池山王駅より永田町へ。

そこで有楽町線に乗り換えて新富町駅(1番出口)

七.築地警察署

多喜二が逮捕されここに送られた。ここで警視庁の須田、山口、水谷、

小沢、芦田らに拷問され危篤状態になる。現在の建物は新築されたもの。

八.前田医院

ここに運ばれ午後七時四十五分に死亡確認された。現在一階はイタリア料理店BEVIAMOになっている。

九.築地小劇場跡地

一九二四年に創設され革新的新劇運動に大きな役割を果たし、多喜二も何度も訪れている。葬儀がここでおこなわれる予定だったが、警官隊に包囲され、できなかった。その後追悼公演「沼尻村」が上演されるも昭和二十年の空襲で消失。

五時半ごろ終了し日比谷線築地駅から銀座駅へ(C1出口)居酒屋で懇親会があります。